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儀式と死への尊厳 [追悼]

 今日は先日逝去した叔父の告別式。朝早くから起きて急いで支度し、新幹線で新横浜へ。そこからJRを乗り継いで保土ヶ谷からすぐの久保山斎場というところの近くにあるお寺で葬儀。
 真宗の門徒やから、葬儀の段取りは関西とだいたい同じかと思うたら、なんか効率化をはかってるのか、遺体を斎場で火葬する前に初七日の法要までやってしまう。ううむ、私は門徒とはいえ別に熱心な信者やないけれど、仏さんにならはる前に初七日間ですましてしまうというのには違和感があるなあ。
 斎場で火葬をしている間、関西ではロビーのソファーに座って遺族はお骨になるまで待つんやけれど、なんとここの斎場では待っている間に仕上げ膳を出してきた。そらまあ待っている時間を有効活用するという意味においてはここで食事するのは効率的かもしれんけれど、仕上げ膳というものは一通りの儀式が終わったあとに、故人をしのびながらお酒を飲んだり食事をしたりするものでしょう。なによりまだ遺体を焼いていると思うと落ち着いて食事なんかできたもんやない。
 ビールがまわって顔をほてらせてお骨拾いに。なんか罰が当たりそうな気分になる。関東の骨壷はばかでかいのをひとつ用意してそこにすべてをおさめるんですな。関西の場合、大小二つは用意して、分骨をしたりなんかする。まあそれは習慣の違いといえるからええんやけれど、お骨が骨壷に入りきらんからというて遺族の目の前でばりばりと壊し始めたのには、これはほんまに参った。遺族一同、自分の骨が折られているような気持ちになってしまう。特に故人のお孫さんたちはまだ小さく、そのばりばりと壊すさまを見て号泣。また、故人の実姉にあたる伯母も、実兄にあたる父も苦痛に耐えきれん。私やいとこたちはお骨を壊すところからはかなり離れて立ってたんやけれど、耳をふさぎたくなった。
 導師の和尚っさんよ、こんなんええんか。遺族を外に出してから見えんところでやるように言われへんのか。なんともやり切れん思いで寺に帰る。初七日の法要はとっくにすませているわけやから、還骨の読経なんてものはもちろんなし。和尚っさんの説法もなし。喪主である叔母があいさつをして葬儀は終了。
 儀式というものは故人との決別を厳粛に行うものやと私は思うている。そやから、宗派を問わず、「死」という事実を厳粛に受け止められるように手順が決まっているんやと思う。そやけど、儀式の手順の効率化といい、遺骨の破壊といい、そういった「死」への尊厳を感じさせるものやなかった。
 死への尊厳がないということは、生への尊厳もないということやないかなあ。久保山斎場だけがそうなのか、関東の葬儀がそういうものになっているのか。知りたいところですわ。
 新幹線で帰阪。帰宅してタイガースの試合をテレビで見る。こういうときやからスカッと勝ってほしかったけど、リードしながらも追いつかれて引き分け。世の中なかなかうまいこといかんものです。

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